<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-10-1<br>更新日: 2025-10-1 </span></p> # 『宗教的経験の諸相』のスタディ:第5回 「宗教」および「神」とはなにか 第4回において、「第1講 宗教と神経学」までのスタディを終えた。今回は「第2講 主題の範囲」の内容を取り上げる。 今回は以降の論述において重要となる『諸相』における「宗教(religion)」と「神(god, divine)」の定義を確認する。 --- 第2講でジェイムズが取り上げるテーマは「宗教および神とはなにか」である。 ジェイムズは多元主義、可謬主義の思想家である。よって、世界中の宗教に共通する一般原理や法則を見つけ出そうとはしない。「宗教」とは一つの集合名詞であり、一つの原理や本質を持つものでないことをジェイムズは指摘する。 そのような複合的・多元的概念である「宗教」を扱うジェイムズのギフォード講義において、そうは言っても最低限の「宗教」の定義を明確にしておかなければ、議論が進まない。そこで、ジェイムズはこの連続講義において「宗教」という言葉を使う時、その語はなにを意味しているのかを定義する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >......私たちが発見しようとするものは、おそらく、一つの本質ではなくて、宗教においてそれぞれ等しく重要でありうる多くの性質であるということを、まず初めに、率直に認めておくことにしよう。[^os9] &#13;&#10; ### 『諸相』における「宗教」の定義 ジェイムズは「宗教」とは複合的な概念であると述べた。それは「政府」という概念と同じである、と。政府には行政、軍、議会など、複数の概念が共存しており、「政府」の本質を単一のものに定めることはできない、というわけだ。 確かに「宗教」にも無数の側面がある。伝統、教義、国家、審判、行政、慈善、政治、気分などなどなど。その一つの「気分」をジェイムズは「宗教的情緒(religious sentiment)」と呼ぶが、その宗教的気分も無数の陰翳やニュアンスの違いが存在する。 このような豊かな複合概念である「宗教」を前にして、ジェイムズは多元主義者らしい謙虚さを見せる。 &#13;&#10; &#13;&#10; >宗教の領域はこのように広汎なのであるから、明らかに、私としてもその全領域をとりあつかうなどと自惚れるわけにはとうていゆかない。私の講義は主題のほんの一小部分に限定されざるをえない。[^8aj] &#13;&#10; ジェイムズはここでどのような限定を行うのか。彼はお気に入りのオーギュスト・サバティエ[^us8]を援用しながら宗教の組織的・制度的な面を除外する。 伝統、教義、組織、そのようなものはジェイムズにとって、二次的なものだ。その姿勢は、[第3回](https://carduelis.page/vre-study/003)で論じたエマソンらの立場と共通している。エマソンもジェイムズもAAも、人と神との交流に宗教的契機の必要性を認めない。 &#13;&#10; &#13;&#10; >人間と神との関係は、心から心へ、魂から魂へ、直接に結ばれるのである。[^6wh] &#13;&#10; このような超絶主義に代表されるアメリカの霊性が『諸相』の宗教分析の基本となっている。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; しかし現在のAAでは、多くのメンバーがこの点を理解できず、12ステップの実践に支障をきたしているのを見る。 多くのAAメンバーが回復に条件を付けたがる。12ステップを「徹底して」行うこと、ミーティングを回ること、スポンサーシップを活用すること。それらは確かに回復の手段として重要だ。しかし、それが霊的体験の「必須条件」として教義化した時、ジェイムズからAAが受け継いだ自由でおおらかな霊性は失われる[^7wg]。 ジェイムズが回心の条件とするのは自己放棄と祈りであり、それは集団の教義によって教条化されたものではない。この点は重要な論点であるので、今後も随時触れてゆく。 論を『諸相』に戻そう。「心の家路」において、宗教とスピリチュアリティの関係は下記図のように説明されている[^js1]。 &#13;&#10; &#13;&#10; <div style="text-align: center;"> <img src="spiritual-religion.png" alt="Centered Image" /> </div> &#13;&#10; この図は、宗教よりもスピリチュアルな領域の方がより広範囲の概念や現象を包摂していることを示している。しかし、この図だけを念頭に『諸相』においてジェイムズが提出している本質論的視座に基づく宗教分析を読むと、誤読が生じる可能性がある。 第2講におけるジェイムズの議論において、宗教とスピリチュアリティ(霊性)は「集合」ではなく「本質性」というカテゴリーにおいて論じられる。そのジェイムズの議論を図表すると、下記となる。 &#13;&#10; &#13;&#10; <div style="text-align: center;"> <img src="spirituality-and-religion.png" alt="Centered Image" /> </div> &#13;&#10; 回心という霊的体験において、人は霊性を得る。その個人と神との関係における経験を元に、教義や組織や伝統が発生する。この流れがジェイムズの論旨である。ジェイムズにとって宗教の本質は個人的回心体験にあるものだ[^6ss]。 たしかに、スピリチュアリティは宗教よりもより広範囲な領域を包摂しているとジェイムズも積極的に認める。しかし、だからといってその「集合」概念に基づく図式のみで『諸相』を読もうとすると、深刻な誤読が発生する。『諸相』においてのスピリチュアリティ(霊性)は、既成宗教より広義**かつ**、より本質的な概念だ。この点がジェイムズの宗教理解の鍵となっている。 つまり、「心の家路」の図と私たちの図式は、一つの現象をそれぞれ「集合」と「本質性」という別の視座から捉えたものとして、**併立**する。なので「心の家路」の図表のみを用いて『諸相』を読解すると、第2講の段階で誤読するのである[^sk2]。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; さて、それではジェイムズの「宗教」の定義をまとめよう。 &#13;&#10; &#13;&#10; >それゆえ、いま私は宗教というものを自分なりに勝手に解釈することを許していただくことにして、私たちは宗教をこういう意味に解したい。すなわち、宗数とは、**個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生する感情、行為、経験**である、と。この関係は、道徳的でも、物質的でも、儀式的でもありうるのであるから、私たちの解するような意味の宗教から、いろいろな神学や哲学や教会組織が第二次的に育ってくるであろうことは、明らかである。しかし、この講義においては、すでに述べたように、直接の個人的経験を取り扱うだけで時間が一杯であるから、神学や教会組織のことを考察する暇は全くないであろう。[^jnd] &#13;&#10; これがジェイムズの「宗教」という語の定義である。 それは個人と神とが宗教的契機なしに直接交流する無媒介性、つまり超絶主義の伝統が息づいている。それこそが、テイラーが「敬虔的ヒューマニズム(humanisme devot)」[^ga5]と呼ぶジェイムズの宗教観であり、AAの霊性観の基調となっているものだ[^0ka]。 この定義において、伝統宗教からは「無神論」と貶される思想も、宗教的思想として理解可能となる。それが「自分なりに理解した神を選ぶ」「神の概念を段階的に取捨選択し、徐々に成長させる」という、伝統宗教には受け入れ難い突飛なアイデアであったとしても、だ。 ### 『諸相』における「神」の定義 次いでジェイムズは、神(god, divine)を定義する。 上記の「宗教」の定義でもわかるように、ここでは伝統宗教の神概念を越えた広義の個人主義的な神概念が定義される[^hs7]。 そのような広義の神概念を設定すると起る不具合は、あまりに軽薄な神概念や、人間の幸福にとって有害である概念をも「神的な存在(divine)」と認めざるを得ない点である。そのような不具合を回避するため、ジェイムズは[第3回](https://carduelis.page/vre-study/003)で論じたエマソンの「気分(moods)」を引き継いだ経験主義を援用し、神概念を限定する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >私たちが宗教的と呼ぶ態度には、すべて、厳粛さ、真剣さ、柔和さといったものが伴なっていなければならない。喜びが、苦笑いや忍び笑いであってはならない。悲しみが、絶叫や詛いであってはならない。私が諸君に関心をもっていただきたいと思う宗教的経験は、まさしく**厳粛な**経験なのである。それゆえ——またしても身勝手な言い分で、お許し願いたいが——私はもう一度、私たちの定義を狭い意味に用いることを提議して、ここで用いる「神」という言葉は、単に根源的、包括的、実在的なものだけを意味するのではない、ということを断わっておく。というのも、狭い意味に制限しておかないと、神という言葉の意味が事実あまりにも広くなってしまいかねないからである。私たちは、個人が、呪詛や冗談によってではなく、厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在という意味においてのみ神を用いることにしたい。[^6ah] &#13;&#10; 神とは上記のような気分(moods)を人間にあたえ、真剣な態度をとらせる存在なのである。宗教的に発達した経験において、そのような神概念は客観的実在性を持って明らかであろう、それがジェイムズの主張だ。 人に厳粛な(solemn)、真剣な(serious)、柔和な(tender)、壮重な(gravity)気分をもたらす存在という神の定義は、AAの個人の体験にも当てはまる。『諸相』に引用される宗教体験や、ビッグブックに掲載されている「個人の物語」において登場する神概念は、呪詛や軽薄な冗談の対象ではない。そこでは、なんらかの真剣さや柔和さ、壮重さが経験されているものだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; ここでAAメンバーとして注意したい点は、ジェイムズの神概念の定義には神の唯一性や絶対性が含まれていない点である。ジェイムズは人間の側の気分としての厳粛さや壮重さを定義として採用するが、そこで人に対して現われる「神的な存在(divine)」そのものが「どのようなものでなければならないか」には言及しない。 「宗教」の定義で確認したように、その「神的な存在」の出所が聖典により保証されていることや、絶対的霊感によって保証されている必要はない。価値判断において、その出所(原因)を問わないプラグマティズムの姿勢が、ここでも表明されているのである。 少々先取りした議論になるが、ジェイムズにとって神は唯一でも絶対でなくてもよいものだ。それが人に回心を通じて、宗教現象にしか起こし得ない良い効果をもたらすならば、神の概念はなんだって良いのである。 ### 結び 上記で見たジェイムズの「宗教」と「神」の定義は、そのままAAにおける「霊性」理解と「神」理解にも当てはまる。AAは「宗教」という語を避け「霊的」という語を多用するが、その意味内容はジェイムズの言う「宗教」そのものだ。 AAの霊性は神とアル中個人を直接に、無媒介に結び得るものとして描かれる。ビル・ウィルソンを初め、多くのAAメンバーがAAミーティングなしに霊的体験をし、アルコホリズムから回復した。そして彼らは、AAグループを作り、AAミーティングを開催し、自らの救済を証ししていき、AAが生まれた。 このAAの起源の無媒介性(特定の宗教的契機を持たない)点はジェイムズの「宗教」の定義にしっかりと当てはまる。また、そこで語られるそれぞれの自由な神概念と霊的体験の証しは、ジェイムズの神概念の定義の姿でもある。 ビル・ウィルソンはこのように述べた。 &#13;&#10; &#13;&#10; >最初に明らかにしておかねばならないのは、AAは医学、精神医学、宗教の手法と、私たち自身の飲酒と回復の経験を元に、それらの概念を統合して作った、いわば「多機能家電」だということです。そこに未知の原理を見つけ出そうとしても無駄に終わるでしょう。私たちはただ単に、精神医学と宗教の古くから実績のある原理を、アルコホーリクが受け入れられる形に整え直しただけです。そして私たちは、この原理を自分自身や他の苦しむ人たちに適用することに熱中できる独特の団体を作ったのです。[^0wj] &#13;&#10; ここで述べられる「宗教の古くから実績のある原理」とはどのような原理か。 その原理の土台となっているのは、特定の宗教的契機や伝統ではない。『諸相』を読めば、ウィルソンがそこからなにを読み取ったのか理解できる。AAの原理の土台には、ジェイムズの宗教・神概念がある。 その土台の上に、どのような建物が建てられるのか。それは以降の連載で詳述しよう。 今回の内容を踏まえ、次回は第2講をさらに詳しく読み進める。 [^os9]: ウィリアム・ジェイムズ, 1969, 『宗教的経験の諸相 (上)』 桝田啓三郎訳, 岩波書店, 46. [^0wj]: ビル・ウィルソン, 2024, 「アルコホーリクス・アノニマスの基本コンセプト」, 心の家路,(2025年9月15日取得, https://ieji.org/material/three-talks-to-medical-societies/basic-concepts-of-alcoholics-anonymou). [^8aj]: ibid., 49. [^us8]: 石井論文が述べる通り、サバティエは『諸相』で重要な役割を果たすプロテスタント神学者である。 <br>石井裕二, 1994, 「近代末期の神の思想 : A・サバティエからE・トレルチまで」,『基督教研究会』55巻(2号): 141-160. [^6wh]: ジェイムズ, 1969, op. cit., 50. [^jnd]: ジェイムズ, 1969, op. cit., 52. [^7wg]: AAメンバーのボブ・PはAAの原理の「教義化」の危険性を指摘している。<br>ボブ・P, 1986, 「AAにとっていちばん危険なものは『厳格さ 』」, 心の家路,(2025年10月1日取得, https://ieji.org/2022/10727) . [^js1]: なかやまひいらぎ, 2024, 「スピリチュアルと宗教の関係」, 心の家路, (2025年10月1日取得, https://ieji.org/bigbookstudy-illustrations/spiritual-religion). [^6ss]: テイラーはこの点に批判を加えている。この批判はAAにとっても重要である。AAはジェイムズだけではなく、オックスフォードグループの「ミーティング」文化がなければ生まれなかったからだ。つまり、AAの源泉は複数あり、唯一ではないということである。<br>チャールズ・テイラー, 2009, 『今日の宗教の諸相』 伊藤邦武・佐々木崇・三宅岳史訳, 岩波書店, 2-26. [^ga5]: テイラー, 2009, op. cit., 13. [^0ka]: ビル・ウィルソン, 2024, 「ビル・Wに問う (32) AAは宗教なのか?」, 心の家路,(2025年10月1日取得, https://ieji.org/lets-ask-bill-w/lets-ask-bill-w-32). [^6ah]: ibid., 62-63. [^hs7]: ジェイムズ, 1969, op. cit., 56. [^sk2]: このような誤読を、私たちはAAの中で何度も見た。ここを誤読したAAスポンサーは、伝統宗教の教義に12ステップを従属させようとする厳格主義、もしくは「全てがスピリチュアル」という役に立たない相対主義を採る。AAスポンサーには、私たちの提供する図式と「心の家路」の図式の両方を使って『諸相』を読み解き、12ステップを豊かにしてほしいと願う。