<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-9-14<br>更新日: 2025-9-15 </span></p> # 『宗教的経験の諸相』のスタディ:第4回 プラグマティズムとは [前回](https://carduelis.page/vre-study/003)の記事において、『諸相』上巻15頁までのスタディを終えた。今回は16頁からの内容を取り上げる。 ジェイムズは具体的な宗教現象の分析にはいる前に、それら現象の2つの在り方を提示する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >「宗教的性向とはどんなものか?」という問題と「宗教的性向の哲学的意義は何か?」という問題とは、論理的な見地からすると、二つのまったく異なった種類の問題である。[^9q] &#13;&#10; この問いは「それはどんなものか」と「価値(意義)はなにか」という問いにそれぞれ還元可能である。ジェイムズも採用した聖書の例を、ここで再構築しよう。 ### 存在判断と精神的判断 聖書とは何か。キリスト教においては、ヘブル語聖書とギリシャ語聖書の合計66巻、および第2聖典(アポクリファ)を含む文書群のことである。それらは正典(カノーン)と呼ばれるように、キリスト教における信仰の多くの部分は聖書に拠るとされている。しかし、この正典には疑義も存在する。 キリスト教において最重要文書群である「新約聖書」が正典化の作業が開始されたのは2世紀末、おおよそが完成したのが4世紀末である。正典化には200年の歳月がかかり、またその過程で新約聖書の「原本」は失われている。さまざまな異本が存在するのが、聖書の歴史である[^2k]。 それまでは、神の啓示によって書かれた聖書は、基本的に無謬のものであり、異本や矛盾が存在するものではないと一部では強く考えられてきた。各巻の聖書記者たちは神の霊感によって聖書を書いたはずであり、作者は人間ではなく、神である(逐語霊感説)[^00o]。それはレンブラントの絵画において、福音記者マタイに天使が霊感を与えたように、である。 &#13;&#10; &#13;&#10; <div style="text-align: center;"> <img src="Evangelist_Matthew_Inspired_by_an_Angel.jpg" alt="Centered Image" /> </div> <p align="right">Rembrandt, 1661, "The Evangelist Matthew Inspired by an Angel" <br>via Wikimedia Commons.</p> &#13;&#10; しかし近代の聖書研究は、聖書を科学的に分析することにより、さまざまな矛盾や異本が存在することを明らかにした。真理の書物である「聖書」に、複数の異本、矛盾 があるのはおかしいではないか。そのような批判が近代になるとなされるようになった。[^o9]。**聖書の高等批評**を土台にしたキリスト教批判の始まりである。 このような論に基づくと、聖書というのは矛盾に満ちた価値のないものであり、聖書に基づくキリスト者の信仰もまた、価値のないものと判断される事態になる。その事態に対し、ジェイムズは以下のように反論する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >いかなる宗教的現象も、それぞれ歴史をもっており、それに先だつ自然的な現象から派生してきたものである。こんにち聖書の高等批評といわれているものは、初代教会においてあまりにも無視されていたこのような存在的な観点から聖書を研究しようとするものにほかならない。いったい、いかなる伝記的な案件のもとに、聖書の作者たちはそれぞれの記録を編んで、聖書の完成に寄与したのか? 彼らが聖書に記されているような言葉を述べた時に、彼らめいめいの心にいったいいかなる観念が抱かれていたのか? これらのことは明らかに歴史的事実に関する問題であって、これに対する解答が、さらにそれ以上の問題を、つまり、そのように成立の事情を明らかにされたそのような書物が人生の指針や啓示としていかに役だつか、という問題を、ただちに解決しうるとは思えないのである。[^6gs] &#13;&#10; 聖書の高等批評は、聖書の存在的側面、つまり成り立ち・連関・矛盾・意図などをテキストや考古学的資料に基づいて分析をする。それは聖書の成り立ち(存在)の在り方を問うアプローチである。これをジェイムズは「**存在判断(existential judgment)**」と名付けている。 しかし、存在判断によって、「聖書」という書物群が人の人生において持つ価値を分析できるだろうか。いや、できはしないだろう、というのがジェイムズの主張である。 そこでジェイムズは、存在判断に代わる判断方法を提出する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >かくして、もしかりに私たちの啓示=価値の理論が、いかなる書物も啓示という価値をもつためには自動的に編まれたものでなければならず、作者の気まぐれで編まれたものであってはならぬと主張したり、あるいは、その書物は科学的にも史実的にも誤認を含んでいてはならず、一地方や一個人の情念を表現するようなものであってはならぬ、などと主張するとしたら、おそらく聖書という書物は、私たちの手にかかって、ひどい目にあうことになろう。しかし、これとは反対に、もし私たちの理論が、書物というものは、おのれの運命の危機と闘いぬいた偉大な魂をもった人間の内的経験の真実の記録でさえあれば、たとえ多くの誤認や激情が含まれていようとも、また、人間の故意の作意がそこにあったとしても、りっぱに一つの啓示たりうる、ということを認めるものであれば、聖書ははるかに有利な評価を受けることであろう。つまり、存在の事実だけでは価値を決定するには十分でないのである。[^js8] &#13;&#10; これがジェイムズの「**精神的判断(spiritual judgment)**」である。 何らかの思想の価値は、その概念や思想の原因にあるのではなく、その思想がいかに人に働きかけ、有益な結果を生み出すかによって決定されるというプラグマティズムの思想が、ここで提示されている[^s6]。 存在判断は在り方を問う静的な判断方法だが、精神的判断は思想の実践過程と結果という一連のプロセスを問う動的判断方法であると言えよう。 ### プラグマティズムとアルコホーリク さて、一旦『諸相』を離れ、プラグマティズムとアルコホーリクの関係性を概観する。 弊サイトに掲載している斎藤学氏の論文[「アルコール依存症患者の行動特性」](https://carduelis.page/materials/20250206)において、アルコール依存症者の「わりきり」が描写されている。氏によれば、アル中は極端な白黒思考であり、中庸さに欠けた歪な人格をもつ人物である。 この姿は、われわれAAメンバーの姿そのものだ。 AAミーティングやグループ運営の場では、AAメンバーの「わりきり」の姿をたっぷりと見ることができる。AAのアル中にとっては、真理は一点の曇りもない純白なものであり、誤謬は救いのない暗黒である。なので、自らを真理と同化させるために、あらゆる自己中心的な戦略を用いる。 このアル中の自らを真理と同化させるための自己中心的戦略がどのような結果をひき起こすか、アル中と関わっている方なら理解できるだろう。そして私たちアル中が、どれほど「原因」に執着し、「結果」を無視するかも分かるはずだ。自らの戦略が、飲酒がひき起こした結果を、私たちは認識することを極端に拒む。 AAは自らをプラグマティズムに拠って立っていると公言はしない。ビル・ウィルソンのように「ジェイムズという靴を履いている」等と、AA流の表現にとどめる。 同時に、私たちアル中は外部(あるいは都合よく内部)に存在する絶対的に無垢なる真理と自らの思考を一体化して、全能感の中で外界に対して君臨したいという、根強く過剰な欲望を持っていることは前述した。この欲望に対して、「ジェイムズという靴」であるプラグマティズムは有効に働く思想である。 プラグマティズムにおいて、真理はアリストテレス以来の「信念と事実との一致」ではなく、常に現実との相互関係における実践と、そこからうみだされる結果に依拠する動的なものとして捉えられるためである[^q87]。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; いくつかの実例を挙げよう。 AAでは「アルコホーリクになった理由探しには意味はない」と言われる。理由よりも、どうすれば私たちが回復できるかに重点を置くものだ。 神的な存在(ハイヤーパワー)が信じられないビギナーには、他のAAメンバーの回復の結果を見るように促される。「どのような神」を信じるかよりも、「神が回復したAAメンバー(多くはスポンサーやホームグループの先達)になにをしてくれたのか」へ意識を向けることが推奨されている[^0so]。 また、12ステップでは自らの行動が生み出した「結果」に直面するように促される。結果を見ることによって、これまでの自身の信念体系の価値の再考を迫るのである。 そして、棚卸しや埋め合わせといったプロセスは、アル中が持つ原因への執着や、真実と自己を同一化させようとする欲望を打ち砕く効果が期待されている。AAメンバー同士の交流や、棚卸しや埋め合わせの実践を経て、相手も酷いが自分もより一層と酷いことに気づいていく。 AAで精神的に具合が悪そうにしていると「どうしたの、休みなよ」とは言われることはなかった。私が飲酒をやめてしばらくして、そのような状態に落ち込んだ時、最初のホームグループのメンバーから言われたのは「メッセージに行きなよ」であった。AAのメッセージ活動とは、現在もまだ解決を見つけられずに苦しむアル中に、自らの得ている解決を示し、彼が求めるならばその解決を得る手助けをすることだ。 ここにもAAのプラグマティズムが活きている。自らのことに過剰に関心を持ち、結果として苦しむアル中には、外界との関わりが勧められる。その過程で、役に立たない古い信念は否定され、新しいより善い結果をもたらす信念が得られるだろうと期待される。そのような能天気なプラグマティズムがそこにある。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; 上に挙げた実例からもわかるように、頭でっかちで未熟なアル中にとって、プラグマティズムは回復のための格好の道具である。ここでもAAは、ジェイムズという靴を履くことによって、12番目のステップ活動を理論化しているのだ。 &#13;&#10; &#13;&#10; >しかしみんなに一致した共通のものがある。それは彼らがみな、自分より偉大な力に近づき、それを信じるようになったことである。このカが、奇跡を行い、人間には不可能なことをやってのけた。有名なアメリカ人政治家が言ったように、「実績を見てみよう」[^9ss]ではないか。[^kj0] &#13;&#10; ### ジェイムズの医学的唯物論批判 AAのアル中もよく行う「起源の卑しいものは、その価値も卑しい」という一元論的判断を、ジェイムズは批判する。宗教的な現象に対して、その起源を肉体的な問題(神経過敏、消化不良等)に設定し、その結果をも蔑む姿勢を「医学的唯物論(Medical Materialism)」と呼び、その価値判断の恣意性を糾弾する。 &#13;&#10; &#13;&#10; >つまり、聖パウロは癲癇の発作を起こしたのではなかったとしても、かつてなにか癲癇に似た症状を示したことがあり、ショージ・フォックスは遺伝性変質者であり、カーライルは、疑いもなく、どこかの器官が原因で自家中毒にかかったのだ、等々ということになる。しかし、ここで、私は諸君におたずねしたい。精神史上の事実をこのように存在という観念から説明することで、その事実のもつ精神的意義をいったいどうして決定できるのか、と。[^9aa] &#13;&#10; このような存在判断と精神的判断を混同したかたくなな態度は、アルコホーリクにも同様に顕著な態度である。「そんな医学的・科学的根拠のないプログラムはやりたくない」というのは、AAで誰しもが一度は口にしたセリフであろう。 閑話はおいておくとして、ジェイムズは聖書や宗教現象の価値判断を、その在り方(存在の仕方)からは行わない。彼はプラグマティストとして、それらの思想がどのような有用性を生み出すかを問う。私たちの要求に役だつ、ということが、その思想を真たらしめる事実である。その思想がどのような出自なのかは、そこで意味をもたない[^0si]。 結論としてジェイムズが、この講義で宗教現象を判断する規準は以下にまとめられている。 &#13;&#10; &#13;&#10; >すなわち、「その根によらず、その果実によりて、汝ら彼らを知るべし」という規準である。ジョナサン・エドワーズの『宗教的情操論』は、これを論題としてくわしく論究したものである。人間の徳の根は私たちには知ることができない。いかなる外観も、恩寵の確かな証明とはならない。私たちの実行のみが、私たち自身にとってさえ、私たちが真のキリスト者であることの唯一の確かな証拠なのである。[^7hs] &#13;&#10; 「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」とは、マタイ福音書7:16の言葉である。ジェイムズは古くから伝えられた宗教の言葉に立ち帰り、根(原因、出自)ではなく果実(結果)でその木の価値を判断すると宣言しているのだ。 ### 結び プラグマティズムの思想はパース、ジェイムズ、デューイ、クワイン、ローティ、パトナムら、プラグマティズムの思想家の間でも相違がある。本連載は哲学史論考ではないのでその差違に深入りしない。 重要なことは、パースと違いジェイムズは、心理的な概念や経験にもプラグマティズムを敷延し、宗教現象の価値判断を行った点である。註5で触れたククリックのまとめのように、パースは科学的概念をアブダクションの手続きにより協働的に真理へと近づけるための思想としてプラグマティズムを用いた。しかし、ジェイムズは心理面までプラグマティズムを敷延し、結果、パースと袂を分かつこととなった。 &#13;&#10; &#13;&#10; <div style="text-align: center;"> <img src="Charles_Sanders_Peirce.jpg" alt="Centered Image" /> </div> <p align="right">Charles Sanders Peirce, via Wikimedia Commons.</p> &#13;&#10; AAにとって都合が良かったのは、パースのプラグマティズムよりもジェイムズのプラグマティズムである。AAのアル中という極端な自己中心的個人主義者がアブダクションを用いて科学的真理を解明するための団体として、AAは設計されていない。 AAは「個人を主体とした」[^98s] 集団である。その極端な個人主義をとる集団の思想的結節点・一致点としてプラグマティズムが存在する。それは、各AAメンバーが自分の回復のために日々ステップ12を実践する**結果として**AAが生まれるという思想である。よって、AAは政府的機構を拒否する[^9aj]。 &#13;&#10; &#13;&#10; 上記のように、AAの12ステップや12の伝統が示す他者への働きかけを重視する姿勢は、AAの回復の原理、サービスの原理の中にプラグマティズムが活きていることを示している。カーツの言うとおり、ジェイムズのプラグマティズムはAAにとって「都合がよかった」のである[^92i]。 AAをナラティブ・アプローチや「言いっぱなし・聴きっぱなし」のミーティングによる効果から分析する向きも多かった。しかし、AAは12ステップの実践に重きを置いており、その手段としてミーティングを活用しているにすぎない。AAのプラグマティズムをナラティブ等で総括する向きに対して、私はAAメンバーとして「それは手段の目的化である」としか言えない。 &#13;&#10; &#13;&#10; <center>・ ・ ・</center> &#13;&#10; 今回はジェイムズが宗教現象の価値判断を行う規準を明確化した。それはジェイムズが精神的判断(spiritual judgment)と呼ぶ、プラグマティズムに基づく判断規準であった。 このプラグマティズムの規則は、今後の『諸相』にも頻出する。また同時に、AAの12ステップを理解し実践するキー概念でもあるので、今後も折りにふれて言及する。 次回は「第2講 主題の範囲」に入る。 [^9q]: ウィリアム・ジェイムズ, 1969, 『宗教的経験の諸相 (上)』 桝田啓三郎訳, 岩波書店, 16. [^2k]: 田川建三, 1997, 『書物としての新約聖書』勁草書房. [^o9]: 実際、四福音書の記述は相互に矛盾している。有名なところではマタイとルカの「イエスの系譜」はまったく異なるものである。その他、無数の矛盾点が存在する。田川建三『新約聖書 訳と註』を参照のこと。 [^6gs]: ジェイムズ, 1969, op. cit., 17. [^s6]: ここで言う「プラグマティズム」はあくまでジェイムズのプラグマティズムであり、パースや他のプラグマティストのプラグマティズムとは異なる。パースとジェイムズのプラグマティズムにおける差違はククリック『アメリカ哲学史』227頁以下を参照。以下「プラグマティズム」と言う語は「ジェイムズのプラグマティズム」という意味で用いる。 [^q87]: 伊藤邦武, 2016, 『プラグマティズム入門』 筑摩書房, 75-78. [^kj0]: AA, 2024, op. cit., 73-74. [^9ss]: ここで「実績」と訳されている原文は "Let's look at the record."であり、the recordの持つ「記録」や「経歴」のニュアンスが失われ、結果だけに目を向ける意味合いが強くなっているのは残念である。ここで言っているのは、アル中が神によって救われたその過程と結果に目を向けてみようということであり、プロセスを重視している(「ビルの物語」のような)。 [^9aa]: ジェイムズ, 1969, op. cit., 30. [^0si]: ibid., 32. [^7hs]: ibid., 38. [^98s]: AA, 2024, op. cit., xxxi. [^9aj]: AA, 「12の概念(短いかたち)」, AA日本ゼネラルサービス, (2025年9月14日取得, https://aajapan.org/12concepts/ ). [^0so]: AA, 2024, 『アルコホーリクス・アノニマス』 AA日本出版局訳, JSO, 14-19. [^92i]: アーネスト・カーツ, 2020, 『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』 葛西賢太・岡崎直人・菅仁美訳,  明石書店, 61, 266. [^00o]: 山崎ランサム和彦, 2019, 「『聖書信仰とその諸問題』への応答3(藤本満師)」, 鏡を通して ―Through a Glass―, (2025年9月14日取得, https://1co1312.wordpress.com/2019/01/26/%E3%80%8E%E8%81%96%E6%9B%B8%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%AB%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%8F%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%BF%9C%E7%AD%94%EF%BC%93%EF%BC%88%E8%97%A4%E6%9C%AC%E6%BA%80%E5%B8%AB/). [^js8]: ibid., 18.