<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-8-5<br>更新日: 2025-8-11
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# 『宗教的経験の諸相』のスタディ:第3回 アメリカの哲学者
今回から「第1講 宗教と神経学」に入る。ここでジェイムズは、ある感慨を述べる。
>この演壇に立って、皆さんのような学識のある聴衆を前にすると、いささかこわくて、身体がふるえるのを覚えずにはいられない。[^aaa]
なぜジェイムズの身体はふるえるのか。それは、ギフォード講義の壇上に立つジェイムズと、聴衆のヨーロッパ知識人たちの間には、旧大陸(ヨーロッパ大陸)と新大陸(アメリカ大陸)との歴史が横たわっているからである。
その歴史を理解することは、AAの歴史を理解するために重要なことだ。なぜなら、カーツの指摘によれば、アルコホーリクス・アノニマスとは「米国的」であるからだ[^www]。
### アメリカとヨーロッパ
周知の通り、アメリカ大陸は15世紀にクリストファー・コロンブスによって発見され、マルティン・ヴァルトゼーミュラーにより America と命名された。ヨーロッパ諸国の植民地時代を経て、1783年に独立国となったアメリカは、ピューリタニズムを国の柱とし、キリスト教国家として歩んだ[^eee]。
南北戦争(1861-65)という分裂を経て再統一され、新生アメリカは産業革命を経たヨーロッパ諸国と対峙することになる。そこでは、旧大陸に対して新大陸の新興国家であるアメリカ合衆国独自の科学研究を示す必要が生まれた。
この分裂と統合を経た新生国家が、ジェイムズの思想活動の舞台である。そしてその時代は、科学だけではなく新しい思想も大きく羽ばたいていた時代でもあった。
<center>・ ・ ・</center>
18世紀、ボストンを中心としてアメリカには旧大陸にはない新しい思想運動が興った。1820年から30年にかけて発展した、エマソンらの超絶主義(Transcendentalism)である。
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<img src="Ralph_Waldo_Emerson_by_Josiah_Johnson_Hawes_1857.jpg" alt="Centered Image" />
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<p align="right">Ralph Waldo Emerson, via Wikimedia Commons.</p>
陰鬱で抑圧的なピューリタニズムへのカウンターとしての要素を強くもつエマソンらの思想は、宗教的な契機を否定し、スピリチュアルなものに個人が直接に触れる「情動と共にある経験」を特徴としている[^syu]。カルヴァン派の影響が大きいピューリタニズムにおける「神」は、人間と質的に断絶した超越的・絶対的存在であり、人間は自らの罪の悔い改めと自己否定を通して神と関係性を持つ。しかし、エマソンにそのような厳格で陰鬱な神概念はない[^ddd]。
エマソンが1841年に発表した "The Over-Soul"と題されたエッセイを引用する。
>精神のあらゆる活動における人と神との交わりは言葉では表現できない。最も清純な人が全身全霊を打ち込んで神を礼拝しているとき、その人は神となっている。しかし、このより高い普遍的自我の訪れは永久に新しく、これを探求することはむずかしい。それは畏怖と驚愕の情を起す。神の想念の湧き起るときは、それは私どもにとって如何に懐しく、如何に慰安となり、寂しいところも賑やかとなり、過失や失望の傷も拭い去られることであろう! 伝統の神を毀ち、修辞の神を捨てるときにこそ、神は人の心にみずから臨み、これに火を点ずるであろう。それは心そのものの強化、いや、一種の生長の力をもって心を無限に拡大し、新たな、あらゆる面で無限大のものにすることである。[^ppp]
エマソンの「気分(moods)」をより感じるために、上記エッセイに先立つこと179年、1662年にニューイングランドの牧師マイケル・ウィグルズワースが書いた詩における、神の怒りに触れることへの警告にある鋭い断罪の響きと比べてみよう。
>だが、背教の徒よ、ひそかに期待してはならぬ、
>わたしがお前たちの邪悪な振る舞いを容赦するであろうと。
>ちょうど滑車が荷を転がすように、お前たちの罪がわたしに強いたのだ。
>だからわたしはお前たちが与えたはずみのゆえにお前たちを罰しよう。
>お前たちが直ちに心から悔い改めないかぎり、
>わたしは苦痛と重い罰とを猶予しはしない。[^kkk]
ここでの「わたし」とは神のことであり、このような罪人の断罪と悔い改めへの警告はピューリタンのお家芸である。
さて、ウィグルズワースの詩に見られる神と人との断絶、神からの断罪の陰鬱さといった気分が、ひとかけらでもエマソンのエッセイに存在するだろうか。
エマソンの神概念には、支配し罰する神はない。それは限りなく自己そのものであり、人は罪の悔い改めや聖霊などの宗教的契機を必要とせず、その内奥の自分を知り、触れ、豊かな情動と共に神を経験することができる。同時に、エマソンにとって、個人と自然は霊により繋がっている。
ククリック『アメリカ哲学史』から引用しよう。
>個人の霊は、より偉大なる霊〔a greater Spirit〕、すなわち神の断片もしくは部分である。自然は、神的なものの「解説者」であり、受肉した神であり、より偉大なる霊がみずからの断片に現われる方法である。自然の目的は、こうした断片的なもろもろの魂にとっては、神をより偉大なる自己として顕わにすることなのである。
>『自然』は、エマソンの著名な個人主義と「自然主義」とを修正した。彼は聴衆に自己信頼を説いたが、こうした説教を自己実現の結果についてのみずからの信念に結びつけた。自己の発達というものから、人がより偉大なる霊と部分的に同一であることが段階的に明らかになるだろう。彼にとっての真の個性は、エドワーズの伝統と同様に、決して利己的であるさまを示さない。救われた人間はむしろ、一体化した全体のうちの部分である。「卑しい自我中心主義」というものは、エマソンが言うには、消え去るだろうものである。「普遍存在〔Universal Being〕」の流れは、人々のあいだを循環するだろう。「私は神の一部分もしくは一区分である」。自然のなかに霊的な美を見ることができないとき、人間は利己的な存在となる。[^fff]
自然には神が満ちており、自然に触れることでも人は聖なるものを感じることができる。聖なるものに触れるためには、ハーバード大学神学部を出た牧師による聖書解釈も、難解な神学書も必要ない。人はそのような権威や伝統を介することなく、聖なるものに触れ、自分の内外に満ちる神を直感することができるのだ。
このような権威や伝統を否定する「自己信頼(Self-Reliance)」を伴う汎神論的姿勢は、エマソンを初めとする超絶主義者たちの基本姿勢である[^iii]。
そして、その個人と自然との一体化を重視する汎神論的な思想は、デカルト以来のヨーロッパ啓蒙主義における「主観と客観」という区別を棄却する。自らの思想の新しさを自覚していたエマソンは、1837年にアメリカの思想をヨーロッパ大陸の支配からアメリカ人の手によって解放する時だと高らかに宣言した[^sss]。
旧大陸のプロテスタンティズムにもカトリシズムにもない、現代の「自己啓発」の源流となっている新しい思想が、ジェイムズの眼前にあった。そしてその思想は、旧大陸からの思想的独立を謳っていたのだ。
<center>・ ・ ・</center>
一方、超絶主義の誕生と並んで、いやそれ以上に巨大な事件も起きていた。ダーウィンの『種の起源』が1859年にイギリスで発表されたのである。
先述したように、アメリカはピューリタニズムの国として生まれ、独立し、成長していた。ネイティブ・アメリカンの虐殺を歴史的使命として正当化し、開拓を推し進めるなど、ピューリタニズムという神学思想はアメリカの国家としての成長において大きな役割を果たしている。しかし、ダーウィンの『種の起源』は、そのピューリタニズムを打ち壊す力を持っていたのだ。
ククリックを再度引こう。
>チャールズ・ダーウィンの著作によって、19世紀の最後の3分の1におけるアメリカの思弁的企てに備わっていた宗教的方向性は大きな痛手を被った。学問の世界における神学校の優越は終焉を迎え、知的生活を支配していた明確なキリスト教思想はほとんど消失した。同時に、この30年のあいだに、多くのカレッジが、より規模の大きな国際的に認知される学術の中心地へと変貌し、他方で、新たな公立・私立大学がアメリカ全土の注目を集めるようになった。一世代前であれば「大学院」教育を受けるためにヨーロッパ——とりわけドイツ——あるいはアメリカ国内の神学校へ進んでいた学生たちは、1900年になると、PhD、すなわち博士号取得のために、アメリカの大学における学士号以降の過程に進むようになっていた。こうした学生たちの多くは、以前は牧師や神学教育のなかに求められたものを、いまや哲学のなかに見出した。[^zzz]
時代が大きくうねり、今まで社会の主流を成していたものが崩壊していく過程が、ジェイムズのスタートラインにはあった。実際、エマソンらの超絶主義、ダーウィニズムの衝撃をジェイムズも吸収し、大きな影響を受けていることが『諸相』からもわかる[^lll]。
撤退を続ける神学よりも哲学が社会的影響力を増すような情勢。そのような時代の流れにおいて、アメリカ独自の新しい思想からの影響を受け、影響を受けるのみならず超絶主義者たちをも批判する新思想であるプラグマティズムをひっさげて、ジェイムズは建国の祖ピューリタンたちの故国であるヨーロッパに立っている。場所はヨーロッパの知の殿堂の一つエディンバラ大学、そしてヨーロッパ知識人たちが集うギフォード講義だ。
もうジェイムズの身体のふるえは、理解出来ないものではないはずだ。
彼がこれから講義する内容は、エマソンをはじめとする超絶主義者たちから受け継いだヨーロッパ思想を鋭く批判する内容を含んでいる。そればかりか、プラグマティズムは超絶主義を超えた射程を持つ過激な新思想なのだ。
>年月が経つにつれて、合衆国で講義されるスコットランドの方々といれかわって、わが国の学者の多くがスコットランドのほうぼうの大学に招かれて講義するようになることを、わたしは希望する。[^ccc]
このジェイムズの言葉が、新興国アメリカから旧大陸への、反知性主義の精神に満ちた過激な挑戦の言葉として聞こえるのは、私たちだけではあるまい。
### AAとアメリカ思想
さて、ここまででギフォード講義に臨むジェイムズのバックグラウンドを簡単に述べた。
この流れを理解するならば、読者は「第1講 宗教と神経学」の冒頭で、なぜジェイムズがあのような言い回しでヨーロッパの聴衆に語りかけたのか、ジェイムズのふるえと共に理解できるだろう。
しかし、私たちの主な関心は思想史そのものにはない。
私たちAAメンバーがこの日本でAAを作り、そしてAAの回復のメッセージを運ぶ際に、上記の思想史がどのように私たちの実践にかかわるのか。それこそが私たちの絶えざる関心事である。
ここで、ジェイムズの前提となっているアメリカの思想とAAの関係を整理する。
#### AAは宗教ではない
この主張は、AAが繰り返し主張するものである。しかし、AAの12ステップにも、12の伝統にも、さまざまな公式書籍にも「神」という言葉が頻出する。神という宗教的な語を使いながら、宗教ではないと主張するのはどういうことか。
AA共同創始者のビル・ウィルソンの祖父フェーエットと幼いビルとの会話がビッグブックに記述されていることは印象的だ。ロバート・インガーソルに傾倒した超絶主義者の祖父の影響を受け、ビルも宗教へ慎重かつ疎遠な態度を身につけている[^kd]。
その彼が起草した12ステップとビッグブックには、エマソンから始まる超絶主義の息吹が息づいてる。それは第2回でも論述した通り、宗教的な契機を必要とせず、人は神と触れ合うことができるという信念であり、自然には神の秩序が現われているという思想である。
AAが自らを「宗教ではない」と主張する時、AAは「AAには宗教的契機は存在せず、超絶主義の潮流から受け継いだ親密で近しく個人的な神概念が存在する」と主張しているのだ。
#### 経験の優位性
エマソンは反知性主義の流れに立つ思想家である。彼は神学部を中心とした知識や理論を軽蔑し、豊かな情動を伴う経験を本質視する。そして、その情動を伴う経験主義はジェイムズにも受け継がれている。
AAの主張も、医学や学識や宗教的教義よりも、明らかに経験を回復における本質的契機だと見なしている。AAにおける回復は、回復についての知識を得たり、なんらかの技術を取得するなどではなく、変容の体験(a transforming experience)そのものであると語られる[^ka]。
AAの「米国的」な経験主義的なあり方は、アメリカの思想である超絶主義やプラグマティズムという経験に本質的優位性を置く思想の上に成り立っているものである。ビルの言うとおり、AAはジェイムズという靴を履いているのである[^iss]。
#### 「神」の定位
AAは神の存在する場所をさまざまに表現する。
神の定位について、AAの最もラディカルかつ一般的な見解は『ビッグブック』に記されている。『ビッグブック』によると神は「自分の一番深いところ(deep down within us)」[^ow]にその定位を置く存在だ。
一方、AAの中でも保守的な書籍である『12のステップと12の伝統』では、神は自己の外部に定位を置くものとして語られる[^oa]。
AAは神の定位を自己の内にも、外にも置くことを認めている。実際、『ビッグブック』に掲載されている「個人の物語」においても、神のいる場所は自己の内外さまざまである。
つまり、AAにおいて神のいる場所は、各個人の直感と経験に委ねられているということだ。
この神の定位を自己の内外に置くというAAの立場に、ビルやアラノン創始者ロイスにとって近しい存在であったエマソンら超絶主義者の影響を見てとることは、容易かつ妥当だろう。
また、詳しくは後述するが、ジェイムズも『諸相』においてエマソンを引き継ぎ、神の定位を内にも外にも認めている。
### 結び
上記でまとめたように、AAにはエマソンやジェイムズらの「アメリカの思想」の影響が明確に息づいている。
AAは無から突然、偶発的に生まれたものではない。AAは「アル中とアル中が出会って、自分の身の上話を語り合って生まれた」というのは、粗雑な偏見に基づく俗説にすぎない。
AAが繰り返し主張する「AAは宗教ではない」という主張も、AAのハイヤーパワーの概念も、AAの反知性主義に基づく経験主義も、19世紀アメリカで生まれた新思想を無視して論述できるものではない。
この点を踏まえるのならば、AA共同創始者ビル・ウィルソンが「ジェイムズはAAの創始者である」[^usu]と述べる理由も理解できるだろう。カーツがAAを「米国的」と形容する理由も同様だ。
AAはアメリカの哲学者であるジェイムズやエマソンを通して、アメリカの新思想を受け継いだ。それは[オックスフォード・グループ](https://ieji.org/glossary/oxford-group)、[カール・ユング](https://ieji.org/glossary/carl-jung)等の豊かな源流から受け継いだ思想と共に、AAの基礎となっているのだ。
次回は引き続き、「第1講 宗教と神経学」を読み進める。
[^aaa]: ウィリアム・ジェイムズ, 1969, 『宗教的経験の諸相 (上)』 桝田啓三郎訳, 岩波書店, 13.
[^www]: アーネスト・カーツ, 2020, 『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』 葛西賢太・岡崎直人・菅仁美訳, 明石書店, 266.
[^eee]: 森本あんり, 2015,『反知性主義』新潮社, 31-54.
[^syu]: シェリル・ミサック, 2019,『プラグマティズムの歩き方 上巻』 加藤隆文訳, 勁草書房, 24-25.
[^ddd]: 柳澤田実, 2023, 「感情が『現実』を作る時代」『現代思想』10月号(第51巻第12号): 42-53.
[^ppp]: ラルフ・ウォルドー・エマソン, 1996, 『精神について』 入江勇起男訳, 日本教文社, 225-226.
[^kkk]: マイケル・ウィグルズワース他, 1976, 『アメリカ古典文庫-15 ピューリタニズム』 大下尚一訳, 273.
[^fff]: ブルース・ククリック, 2020, 『アメリカ哲学史』 大厩諒・入江哲朗・岩下弘史・岸本智典訳, 139.
[^iii]: 『ビッグブック』にあるビルの祖父の言葉(15頁)は、ビルの祖父が超絶主義者であったことを踏まえないと理解できない。
[^sss]: ミサック, 2019, op. cit., 20-27.
[^zzz]: ククリック, 2020, op. cit., 139.
[^lll]: 『種の起源』が与えたインパクトと『諸相』との関係は、後の記事で詳述する。ここでは簡単な歴史関係を抑えるにとどめる。
[^ccc]: ジェイムズ, 1969, op. cit., 14.
[^kd]: カーツ, 2020, op. cit., 50.
[^ka]: ビル・ウィルソン, 2024, 「ビル・Wに問う (32) AAは宗教なのか?」, 心の家路, (2025年8月4日取得, https://ieji.org/lets-ask-bill-w/lets-ask-bill-w-32).
[^iss]: ビル・ウィルソン, 2024, 「ビル・Wに問う (19) ビル・Wの霊的体験」, 心の家路, (2025年8月4日取得, https://ieji.org/lets-ask-bill-w/lets-ask-bill-w-19).
[^oa]: AA, 2001,『12のステップと12の伝統』AA日本出版局訳, JSO, 134.
[^ow]: なかやまひいらぎ, 2024, 「ビッグブックのスタディ (87) 私たち不可知論者は 14」, 心の家路, (2025年8月4日取得, https://ieji.org/big-book-study/big-book-study-087).
[^usu]: 『宗教的経験の諸相』のスタディ[「第1回 はじめに」](https://carduelis.page/vre-study/001)を参照。