<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2025-3-2<br>更新日: 2025-3-2
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# スタディ通信:2025年3月号
そろそろ雪も融けてきて、春がきますね。花粉の季節になって、私は少し憂鬱です。
とまぁ、月報の書き始めをこんな世間話からすのは割とありますが、私がこのスタイルを採ったら身近にいる他の人まで真似するようになりました。
あのね、あんたらオリジナリティとかないの?他にもっとスタイルたくさんあるじゃん。コピバンが許されるのって、高校生まででしょ。あーはずかしいはずかしい(半笑い
というか、そこをパクるならもっと都合の悪いところはパクれないのか。そこは痛いから嫌なのか。なんともはや。
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### ふりかえり
さて、どうでもいい話はおいといて、昨夜のふりかえりでも簡単にしておきます。
昨夜のスタディでは道徳家と信仰者との間にある決定的な違いを取り上げました。ここがわかってないと、AAの中で自分がなにをすべきかも見失いがち。
ようは道徳的に生きることを善とする世界観では、合理主義的発想からくる世界の「わりきれなさ(不条理)」を苦痛と感じるのです。ここらへんの屈折した心理を知りたければ、カミュの『異邦人』でも読んでください。太陽のせいにしてもすっきりしませんねぇ。
一方、合理主義を捨てている信仰者は、世界の「わりきれなさ」を自分がその現前を感じている神的な存在との関係の中で、歓びをもって受け容れます。受け容れると言うよりも「引き受ける」と言った方が正確ですね。
なにが「正しい」のか、という物差しは社会を生きていく上で必要不可欠のものです。しかし、私たちの回復は「正しさ」にはない。ならば、<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">正しさを超えた価値</span>を手に入れるしかない。
しかし慣れ親しんだ「正しさ」以外に物差しを持たない憐れなAAのアル中たちには、正しさを捨てていく道のりは苦痛に満ちたものに感じられます。だから、必要だと感じてはいてもやりません。<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #F5A9A9; text-decoration-thickness: 4px;">見知らぬ仏より馴染の鬼</span>、とはよく言ったものです。
しかし、もしそのアル中が「正しさ」という価値規準を捨てて、神との関係に入るならば、「自分はなんてつまらないものにしがみついていたのか」と感じるようになる。AAの回復はそのようなものです。
### 今後の予定
さて、昨年の11月にこの新サイトを公開しました。それは、このような月報にはとっくに限界を感じているので、連載記事をスタートするためです。
計画では25年1月から記事を書き始められるのではないかと考えていましたが、見ての通り遅れています。これはたいへん情けない事態ではあるのですが、生活上のあれやこれやでどうしても。いや、しかし情けない。
最近は「地道に」とか「ゆっくり」とかの自分を合理化する新概念がAA周りにも登場したようですが、そのような巧妙な麻薬に手を出さず、私は「やるべきことも出来ずに大変申し訳ない、なさけない。仕方ないでは済まないのだが、なんともしようがない」という自身と生活の「わりきれなさ」を**ごまかさずに**引き受けておきます。
大変なさけない。今苦しんでいるアル中がたくさんいるのに、すべきこともできない。仕事は山ほどあるのに、働き手は少なく、働き手にもなれない。