<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2024-11-16<br>更新日: 2024-11-30
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# スタディ通信:2024年11月号
1月の『諸相』スタディは3回続いたスポンサーシップ・スタディの最終回でした。ちなみに、スポンサーシップ・スタディは今後はオンラインではやりません。
今後のスポンサーシップ・スタディは滋賀県で開く『諸相』スタディのスタディ・ミーティングで深化させていきますので、お楽しみに。
来月からは通常の『宗教的経験の諸相』のスタディに戻ります。
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### ふりかえり
さて、昨夜は日本のAAがこれまで40年間できなかった「AAのスポンサーシップにおける限界設定」を初めて行いました。
スポンサーは、スポンシーに対してどこまでアプローチが可能なのか?その限界点の線引きをしないと、介入というのは失敗します。
これまでの『諸相』スタディでも何度も何度も確認してきたことですが、スポンサーがスポンシーに案内するのは、AAの「解決(目的地)」です。
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<p align="right"><a href="https://ieji.org/bigbookstudy-illustrations/problem-solution-action">心の家路 : 問題・解決・行動——現在地・目的地・道程</p></div>
では、この目的地とはどのような場所か?
それはスポンシーが神と祈りという行為を通じて交流ができるようになる状態のことを指します。この交流が可能になる状態をジェイムズと私たちは「受動性」という言葉で表現してきましたし、またその交流を経た変化を「聖者性 Saintliness」という言葉で表現してきました。
その交流とは、『宗教的経験の諸相』において神秘的経験として解釈され、言葉や知性化を超えた現象であることが述べられます[^1]。
その祈りという「目的地」を踏まえた上でスポンサーシップを見ると、容易にその限界が見えてきます。
スポンサーシップはノンバーバルな要素も大きいにせよ、主に言語という道具を主な道具としてスポンシーに12ステップを案内します。しかし、その目的地は<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">言葉にならない祈りという神秘的経験、超自然的な経験</span>です。そこには超自然主義が厳然と横たわっています。
ならばスポンサーシップの限界とは簡単です。それは<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">言語介入の限界</span>なのです。
しかし、ここを矮小化した12ステップが2000年代からのビッグブック・ムーブメントでもAA全体にもたらされる結果となりました。具体的に言えば、スポンシーからの悩みをスポンサーが聞くと「棚卸しをしなさい」と指示するといった現象です。
アル中が直面するさまざまなトラブルは12ステップにおいては、最終的には神との関係で解決を得るものです。ビッグブックのステップ11の祈りと黙想は、「神を頼りにする」という方向性を明確に提示しています。
しかし現在は祈りによって問題を解決する超自然主義の方法よりも、スポンサーが安易な相談役や素人カウンセラー役としてしゃしゃり出ることで、スポンシーと神との関係を阻むようになっています。
これは安直なヒューマニズム(人間中心主義)と言うべきものです。
確かにヒューマニズムは大切です。社会の中で生きる私たちにとって、人との協力や助け合いは必要不可欠です。しかし、ヒューマニズムにのみ頼ると、12ステップの大切な出発点を忘却してしまします。その出発点とはステップ1「アルコホリズムは人間の力では解決不可能である」という事実です。
「棚卸し」は人と神との間の障害物を取り除くための道具であり、人の悩みを解決する道具ではありません。
そして、スポンサーとの棚卸しや相談ですっきりして人の悩みが解決されるなら、神は必要ないでしょう。それは12ステップではありません。
スポンサーがスポンシーの神になることは、AAの「解決」ではありません。スポンサーシップが俗流カウンセリングに堕落し、本来のスピリチュアリティを失っています。それでは助かる人も助からない、そのような批判を行いました。
まぁ、簡単に言えば、<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #F5A9A9; text-decoration-thickness: 4px;">スポンサーが神を信じず自分だけを信じている</span>のです。それではAAスポンサーはできません、だから無残に失敗するのです。
<center>・ ・ ・</center>
上記のことは、2019年に私がAAにやってきたすぐ後から感じていたことです。「みんなハイヤーパワーと言うが、人間関係しか信じてないじゃないか」という疑問は強烈に感じ続けてきました。
しかし、私がAAに来たときにはすでにミーティングから12ステップの超自然主義は失われた後でした。その超自然主義は、ビッグブックの中に眠っていましたが、埋もれているその論理をとりだせる人もほとんどいません。
そんな状況の中で、眼前にある現実を否定し、ビッグブックに眠った超自然主義を再構築するのは、正直、生半可なことではありませんでした。
常に周囲から再構築を阻止しようとする圧力を受け続けますし、また自分の中でも常に妥協ヘの欲望が生じます。
妥協すれば**すぐ**楽になるのです、こんな誘惑はありません。最初の一杯への誘惑に無力なアル中にとって、この欲望を捨てることが容易ではないことは、本物のアルコホーリクなら理解できるはずです。
しかし、ヒューマニズムに対してひとつ妥協すれば、芋づる式に無数の妥協をせざるをえなくなることは分かっていました。なので私は、最初の一回の妥協を拒否し続ける、その力を神に求め続けるしか道はありません。この点に中途半端な道は存在しないのです、これは実体験から断言できます。
なので、近づく者全て斬り捨てるような営みを4年間続けてきて、やっとこさ<span style="text-decoration: underline; text-decoration-color: #ADD8E6; text-decoration-thickness: 4px;">AAの解決が何であり、何でないか」「AAのスポンサーシップが何であり、何でないか」を示す</span>「という、二つの大きな目標を達することができました。
「もともと自分の目の前にあって、その後で失われたもの」ではなく「そもそも自分の目の前にはなく、テキストやわずかな記録や実例でのみ確認可能なこと」を再構築するのは、やってみないと分からないと思いますが、なんでこれを自分が出来たのかもわからないような苛烈な試みでした。しかし、夢中でやっていたら、できました。
まぁ、そのプロセスでたくさんの人を傷つけることになりましたが、何かを為そうとする営みはそういうものです。これは私がいつか神から裁かれる他ありませんし、それでよいのです。その覚悟がないなら、失われたものの再構築なんて営みをすべきではありませんし、する資格もありません。
きれいな手の人間は、何もしてない人です。冷たい人です。
<center>・ ・ ・</center>
いや、しかしとんでもない道のりでした。なんか夢中になって駆けていたら目的地には着きましたが、振り返ると通ってきた道のりは血しぶきがそこら中に飛び散っているような、、、まぁ大げさですが、そんなかんじ。
このプロセスを終止遠くから、控えめに生暖かく見守ってくれ、適宜援助の手を差し伸べてくれた[ひいらぎさん](https://ieji.org/)にこの場でお礼を申し上げます。AAは「個人よりも原理を」ですが、原理のために尽力する個人はAAに必要不可欠であり、やはりありがたいものです。ありがとうございました。
また、今年から[BBSG](https://syoso.org/bbsg)という重い十字架を背負ってくれている[ぺーさん](https://note.com/modern_orchid605)にもお礼を申し上げます。あなたの自己犠牲なしに、スポンサーシップ・スタディは存在しえなかったでしょう。ありがとう。
<center>・ ・ ・</center>
さて、来月からは『宗教的経験の諸相』の上巻に戻り、『諸相』のスタディを続けていきます。これはどこかで続いていないと、これからAAでビッグブックを読み、『宗教的経験の諸相』を読みたい人のサポートができなくなるので。
あとは、来年に滋賀でスポンサーシップ・スタディをやりたいですね。これはスポンサーをやっている・やる意欲がある人のみ参加できるスタディ・ミーティングにする予定。
とりあえずコーヒーを用意したいので、今は大型のパーコレーターを探しています。けっこう高いんだよなぁ、、、
またAAミーティングでお会いしましょう。
[^1]: ウィリアム・ジェイムズ, 1970, 『[宗教的経験の諸相 (下)](https://www.iwanami.co.jp/book/b246799.html)』 桝田啓三郎訳, 岩波書店, 183-184.