<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2024-11-20<br>更新日: 2024-12-28
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# スタディ通信:2023年9月号
暦では秋ということですが、まだまだ暑い日々が続いていますね。
しかし、朝夕は少し涼しくなりました。みなさん、いかがお過ごしですか。
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### ふりかえり
スタディもついに「神秘主義」の講が終わりました。やっとこさ、というのが実感です。
[**シラバス : セッション11** ](https://syoso.org/syllabus/session11)
昨年6月から『諸相』スタディは内容を新たに『諸相』の冒頭からスタディを始めたのですが、やはり月一ペースではここまでで1年3ヶ月かかりますね。
やりながらシラバスを作っていますので、全体像の把握もまだできていません。それでも何とか続けられているのは、ありがたいことです。
スタディ・ミーティングは「言いっぱし・聞きっぱなし」ミーティングとは違って、準備が命です。
「言いっぱし・聞きっぱなし」ミーティングの場合は重要なのはミーティングを開催すること(会場を開けること)ですが、スタディの場合は会場を開けたところで何の準備もしていなかったら成立しません。ここが辛いところです。
やってみるとわかるのですが、慣れるまでは準備はとてもしんどいもんです。当日の反応も分かりませんし、準備した資料が「正解」なのかも分かりません。そんなプレッシャーがあるのですが、まぁこれも慣れです。
今では「何とかなるだろ、どうでもええわ」と8割開き直っています。この開き直りが良い効果を生むようで、どうも肩の力が抜けて雰囲気が良くなったようです。最初2年はひどかった。
運営側がミーティングという場をコントロールすることに過剰に労力を注ぐと、硬直して緊張したミーティング空間になってしまいます。しかし、なんのコントロールもしないと「何でもあり」になってしまい、AAミーティングとは言えない空間になります。それはただの無責任でしょう。
ここら辺の感覚を身につけていくこともグループの成長ですね。失敗と振り返りと改善の繰り返しです。
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さて、9月のスタディではこのような文章を引用しました。斎藤学氏によるアル中批評です。
> 酩酊によるパワー幻想には、飲酒者を中心に世界を秩序づけ、飲酒者がこれを意のままに支配するという万能惑にかかわる側面と、こうして秩序づけられた世界の中で、自他の区分をなくし、他者と共惑しあうという合体感の側面とがあり、いずれも幼児的に退行した外界とのかかわりかたである。逆に言うと、こうした幼児的で自己中心的な他者とのかかわりかたを「好ましい」、「標準的な」人間関係と考える人がいて、たまたまその人が体質的、環境的に飲酒に適していたとすれば、飲酒癖が発展しやすいわけである。
> こうした人々は他者からの共感的対応を常に期待しているのであるが、しらふの付き合いの中では、この期待は裏切られることが多く、その際には深刻な不安や怒りが発生し、彼らの精神生活を危機に陥れる。こうした不安や怒りが否認とスプリッティング(分裂)によって防衛されたところで生じるのが、彼らに特有の誇大的で自己愛的な姿勢であり、筆者はこれを「つっばり(過度の独自性強調と力の誇示)」および「がんばり(過剰適応的態度と軽躁性)」と呼んでいる。
>
> こうした姿勢は彼らに現実を無視した高望みを強いることになり、さまざまな企図を失敗と破綻に終わらせることなるが、ここから生じる不安、抑うつ、怒り、自責感などによる痛みを酩酊によるスプリッティングで防御し、パワー幻想を維持するという機制を積み重ねることによってアルコール依存は進展していくのである。誇大的で、自己愛的で自尊心の維持に躍起となりながら、他人との間で真のかかわりが持てないこの種の人格をさして、自己愛パーソナリティ(コフート Kohut, H.)と言う。つまり、パワー幻想を求める人々とはこうした自己愛人格者にほかならない。
>
> 自己愛人格者とは言いかえれば、自己肯定感に乏しい人であり、そのために「ひとりでいる能力」に欠損を生じている人のことである。自分の存在に自信がもてないので、自分を賛美する他者の視線を常に求め、また他者にほれこんだり、裏切られたを忙しく繰り返すのである。ここで自己肯定感と言うのは、自分の生を当然のこととし、自分が周囲の情緒的環境(他者)から受け入れられることを疑わない、自己の存在に関するある種の確信を言う。自分の生に対するこうした自信と自己主張は「自己愛エネルギー」と呼ばれることがあるが、自己愛人格者ではこのエネルギーが不足しているのであり、この不足がアルコールによるパワー幻想の賦活を求めるのである。[^1]
これは私たちAAメンバーの姿でもあります。たとえ飲まなくなっても、私たちは今でもこんな感じじゃないですか。違う?へぇ(笑)。
このような私たちが飲まずに生きるためには、齋藤先生の言う「自己愛エネルギー」をどこかに求めなければならないでしょう。
AAでは「飲まなくなったアル中は共依存になる」と言いますが、それはアルコールに求めていた自己愛エネルギーを今度は他者から得ようとする私たちの姿を言い表しているのでしょう。しかし、それを続けていくならば、飲まないで生きていくことができないことは、多くのAAメンバーの死が実証しています。
私たちの中心にぽっかりとあいた穴のような虚しさに酒を突っ込むのか、人を突っ込むのか、趣味を、筋トレを、セックスを、まぁ何でも突っ込むことができます。
しかし、AAの言う「本物のアルコホーリク」とは、何をそこに突っ込んでも満足できなかった惨めな人々のことでもあります。では、どうするのか。
AAの発想は意志力を鍛えて耐えることや、ストア派的な諦観を身につけることではありません。そこを**ハイヤーパワーに満たしてもらう**、という戦略をAAはとっています。
ジェイムズはこう言います。
> このように、個人と絶対者との間にある一切の障壁を克服することは、神秘主義の偉大な功績である。神秘的状態において私たちは絶対者と一つになり、同時にまた私たちが一体であることを意識する。これは神秘主義の永遠の素晴らしい伝統であって、風土を異にし信条を異にしてもほとんど変わりがない。ヒンズー教においても、新プラトン主義においても、スーフィー教においても、キリスト教の神秘主義においても、ホイットマン主義においても、同一の調子が繰り返されている。こうして、神秘主義の言説にはいわば永遠的な意見の一致があり、これが批評家を立ちどまらせ、考え込ませることになるのである。前にも言ったように、神秘主義の古典が、誕生日も故郷ももたないのは、そのためである。人と神との合一を永久に語り続けるのであるから、神秘主義の言葉は言説以前のものであり、だから古びることがない。[^2]
このような神秘主義の本質は12ステップの中にも継承されています。それはステップ11に示されているものです。
> 示された方向に徹底的に従うならば、私たちは神の息吹が自分の中に流れているのを感じるようになるだろう。[^3]
神の息吹( the flow of His spirit )と触れ合う、つまり神と触れ合う経験がそこには含まれているということですね。
この感覚が全く欠如しているならば、それはビッグブックが描く霊的体験・目覚めとは言えないでしょう。
神秘主義の伝統はAAの中にも確かに流れています。AAは多様で豊かな源泉を持っているのです。
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そんな話をして「神秘主義」の講を終わりました。
次は「哲学」になるのですが、果たしてどうなることやら。まだ資料を作ってないのでわからないのですが、お付き合いいただけると嬉しいです。
ちなみに、現在シラバスを作成しながらスタディを続けるという自転車操業をしています。しかし今回のターンが終わればシラバスと基礎資料ができますので、もう少し歴史や思想史に踏み込んで『諸相』スタディの内容を展開できる見込みです。
それは来年以降になるかなぁ、と思っています。いろいろと資料は買い込んだのですが、まだまだ基礎づくりに手がいっぱいで消化できていないので。
[^1]:斎藤学, 1985, 『アルコール依存症の精神病理』 金剛出版, 9-11.
[^2]:ウィリアム・ジェイムズ, 1970, 『[宗教的経験の諸相 (下)](https://www.iwanami.co.jp/book/b246799.html)』 桝田啓三郎訳, 岩波文庫, 244.
[^3]:AA, 2024, 『[アルコホーリクス・アノニマス](https://ieji.org/glossary/bigbook)』 AA日本出版局訳, JSO, 123.