<p align="right"><span class="small-text">公開日: 2024-11-21<br>更新日: 2024-11-21
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# スタディ通信:2022年9月号
今回のスタディ通信は昨夜に行われた9月の『諸相』スタディの雑感になります。
8月号のように気合の入った記事を毎回書くと、なんか脳が干上がってしまうので、今回はクールダウンも兼ねた雑感・雑記です。
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### ふりかえり
昨夜の『諸相』スタディは、今年の6月からやってきた新しい試みである、ジェイムズの論述を細かく追うのではなく、12ステップのステップワークに役に立つエッセンスを抽出し示すという試みの、一つの結論のような回になりました。
[**シラバス:セッション02**](https://syoso.org/syllabus/session02)
『宗教的経験の諸相』は学術的なテキストですが、こういうテキストはだいたい、最初の方で大まかな結論を示して、その後で具体的な論述や論証に入る傾向があります。
なので、第二講で示された昨夜の「スピリチュアルな信仰の効果」は、ジェイムズの結論でもあります。しかしこれから、それは更に深められるわけですが。
まーなんつーのか、それをまとめるのも気合がいるわけでして、けっして論理だけでまとめられるものではありません。自分の12ステップの理解が問われますし、その実践も問われます。
1年半前に上巻のスタディをやったときなんか、ここはすっ飛ばしています。さっぱり理解できなかったから。
なのでスタディ・ミーティングをやるというのも、自分が問われるというか、身を削がれるような側面はあるわけですね。人前に立つって、けっこうな地獄だったりします、実感として。
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「じゃーなんでやってるんだよ」と問われて、なんと答えるかというと「よくわからん」としか言えません。自分が助かるため、誰かの役に立つため、楽しいから、義務感から、などの様々な回答ができそうですが、正直、よくわからんです。気付いたらこうなっていたような気もします。
まぁ、そういうような「よーわからん」というのが、神の導きだったりするんだろうな、と思っています。いろんな人が支えてくれていますしね。
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『諸相』の「第二講 主題の範囲」にはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』が出てきます[^1]。
これは15世紀に書かれたとされる、キリスト教社会では広く流布した本で、ビルとロイスの蔵書リストにもこの本は入っています。
スタディの参考資料として買ったこの本に、こんな一文がありました。気に入ったので、いろんな人にシェアしたのですが、ここにも貼ります。
> ところで神は、私たちが互いに人の重荷を荷いあうことを学ぶように、定められた。なぜならば、誰しも欠点のない人、誰も重荷を負っていない人、誰も自分だけで充足している人、誰も自分自身にとって十分なわきまえをもつ人はいない。私たちはお互いに重荷を荷いあい、互いに慰めあい、同じように助けあい、教えあい、いましめあうのが、当然である。[^2]
ここの引用文のロジックが僕は好きです。
それは、人はそれぞれ素晴らしい人だから助け合うの**ではなく**、人はお互いに欠点まみれで満足できない存在だから、お互いに助け合うのだというロジックです。
僕たちがミーティングを開き、いま苦しむアルコホーリクの手助けをするのも、AAメンバーが素晴らしい存在ではなく、相変わらず欠点まみれで病んでいるからでしょう。完全な人には、他者も神も必要ないでしょうし。
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そんなことを考えながら、昨夜のスライドを作り、プロットを書きました。
ジェイムズが描くスピリチュアリティの**効果**とは、現実を素晴らしいものに変えるものではありませんし、人を素晴らしい存在に変化させるものではありません。
それは、相変わらず素晴らしくない自分と、現実の不条理を、神との関係の上で前向きに受け入れていく姿勢を私たちにもたらしてくれることです。
ここにも、私たちは相変わらず素晴らしくないから、霊性や自分を超えた存在が必要なのだ、というロジックがあります。
神ならざることというのは、そういうものなのでしょう。
[^1]: ウィリアム・ジェイムズ, 1969, 『[宗教的経験の諸相 (上)](https://www.iwanami.co.jp/book/b246798.html)』 桝田啓三郎訳, 岩波書店, 72.
[^2]: トマス・ア・ケンピス, 2019, 『イミタチオ・クリスティ』 呉茂一・永野藤夫訳, 講談社学術文庫, 55.